明治初期まで中山道最大の宿場街、下諏訪宿で誕生した「新鶴塩羊羹」もなんと148年! 味、製法、も昔のままです 諏訪大社の桜も散り始めた清々しい日に「新鶴本店」へお邪魔しました。木造の情緒あるお店、レトロなガラス戸を引き開けると昔ながらの木箱に陳列された和菓子。コロナ禍ではありましたが、開店を待っていた常連さんが「2つ、3つ」と数だけ言って購入して行きました。お遣い物の様です。会員見聞録企業紹介諏訪郡下諏訪町木の下3501電話 0266(27)8620新鶴本店(諏訪大社秋宮隣)企業情報創業当時の明治6(1873)年12月、東京府は、全国でも珍しい新税を課税しました。当時の東京は、新橋~横浜間の鉄道が開業するなど、近代日本の首都として、文明開化の街へと変貌を遂げようとしていました。では、そんな東京で課税された「生き物」とは何でしょうか。 1.オウム 2.うさぎ 3.金魚 聞き手 広報委員会広報委員 本日はお忙しい中、又コロナ禍で大変な状況下ご対応いただきありがとうございます。さてこのコロナ禍で業況はいかがですか。河西社長 お客様の減少は思っていたより大きく、売上にも大きく響いています。一時期は従業員の交代休みの日を増やしたぐらいです。昨年末に少しお客様も増えだしたかなと思いましたが、3度目の緊急事態宣言の話が出、また大きく減少して来ています。広報委員 ところで、148年の歴史の中で知っている限り一番辛かった時期はいつですか。河西社長 私の知る限りでは、このコロナ禍かもしれません。でも戦時中、砂糖が入手できず2年間ほど休業した時期があったと聞いていますが、当時はもっと大変だったと想像しております。広報委員 この下諏訪町は中山道最大の宿場町ですが、どのような経緯で「新鶴塩羊羹」が誕生したのですか。河西社長 下諏訪の旅籠の六男に生まれた当店初代河西六郎が、この地で明治6年に創業致しました。その際、考え出したのが塩羊羹です。私で5代目となりますが、当時の味と製法を代々受け継いで守っております。広報委員 この地でなぜ塩羊羹が誕生したのですか。河西社長 この地は山国であり、塩の道の終着点でもあり、塩に対する思いは今以上に大変強かったと思います。生産日本一の茅野の寒天、下諏訪の良質な水にも恵まれ塩羊羹が生まれたと考えております。広報委員 製造方法も昔のままということは、逆にご苦労があるのでは。河西社長 代々職人が製造技術を引き継いでおり、職人の育成が一番大切だと思っております。又今でも楢の薪を焚いて羊羹を練っているので、竃の維持、楢の薪の入手にも苦労しています。広報委員 自動化した機械では代用できない手作りの味と色合いを出しているのですね。河西社長 自動化すると機械に合わせた塩羊羹になってしまいます。今の味を守るには、やはり手作りしかないなと考えております。代々引き継がれた職人技による変わらぬ味は、多くのお客様に支持していただいております。広報委員 販売はここ新鶴本店の店売りのみと聞いていますが。河西社長 百貨店の物産展等に出すことはありますが、原則当店のみの販売とさせていただいております。日持ちがしないこと、大量に作れないこと、対面販売を守りたいことが理由です。広報委員 新鶴の塩羊羹をつまみにお酒を飲む方の噂は何回か聞いたことがあります。自分も試したことがありましたが、全く問題なくおいしかったです。河西社長 その話はお客様から良くお聞きします。ありがたいことですが、私は緑茶を飲みながら食べるのが好きです。広報委員 私も、緑茶、たくあん、塩羊羹です。ところで新商品などはお考えですか。河西社長 以前から団体のお客様からお土産だけでなく自分もバスの中で食べたいので、小分けにした商品はないかという要望が多く聞かれたので、現在パックにした食べきりサイズの物をご用意しております。ご好評をいただいておりますが、すべて手作業でやっているので、生産量が少なく申し訳ないとおもっております。広報委員 塩羊羹も全国で普及していますが、やはり新鶴塩羊羹は別物と言われる所以が納得できました。本日はお忙しい中ありがとうございました。正解は兎です5代目河西正一社長※朝方、米マスターズゴルフで松山秀樹選手が優勝しました。歴史的快挙の記念すべき日にお邪魔しました。 チョット税金クイズ創業明治6年「新鶴塩羊羹」すわほうじん 第148号 (第三種郵便物認可) 令和3年5月1日発行5
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